※注釈:この記事は、宗教的な思想を否定するものではありません。
今日は攻めた内容でお送りします。ブログ記事にもあるとおり、私は無神論者です。先に断っておくと、私だって都合のいい時だけ神頼みすることだってあります。例えば
- パチンコで手を付けてはいけないお金に手を付けた時
- 車の運転中や、電車内で水戸の肛〇様が限界を迎えそうな時
・・・罰当たりも良いとこですね。多分私は地獄行きでしょうね。
タイトルに戻りますが、神の所在や死後の世界については死んでみるまで分からないですし、科学的にも解明されないだろう、というのが私の考えです。生きてる間にどれだけ考えられるか。死は平等に訪れ、また死は必ず一人で迎えるということに対して覚悟、納得して逝けるかが人生のテーマ、課題であると考えます。
とはいえ、それを受け入れることは容易ではないですから、それを支えるために宗教や神が存在する。死という未知のものに対していくつかの仮説、仮定、プロセスや倫理観を落とし込むためにそれらは信仰の対象となる。これが私の考えです。もちろん生物が誕生する可能性、確率が天文学的に低いもので、それこそ神のような存在がいないとそれが成り立たないという考えもあるでしょう。
私はパラレルワールド、量子力学的な話には疎いですが、「神がいると信じた場合の私」と「神はいないと信じた場合の私」2人(以上)の私、2つ(以上)の世界が同時に存在していると思います。恐らく私が神を信じれば神は存在する世界となるし、信じなければ存在しない世界となる。そう思うのです。なので5号機ハーデスに7枚目を投入している時に神に祈ったあの瞬間、夏に強すぎるクーラーの電車の中で冷や汗をかきながら必死に肛門様と攻防を繰り広げたあの日、おそらくあの瞬間の私の世界には神が存在した。そう思います。
なお、肛門攻防戦の際神は助けてくれましたが、ハーデスは天井直前ヘルゾーンで爆死しました。そういう事。